記憶の配置
更新日:10月20日
もともと、この活動を始めたのは、医師の末永が、宮崎県には学生を畑に連れて行ったりする事例があるらしい、といううわさ話のようなことから始まった。
予算申請のために調べ始め、書き始めると、なんとかなりそうだった。
「医師が生活を知ることの重要性」、そして、「住民とともに育つこと」を目標に始めた。
この活動では、若い医学生に伝えたいという思いから、Instagramの投稿、HPの運用を行っており、後者では専攻医や医学生の体験記とともに、体験の様子を動画で公開している。
先日の農業体験で、いつも受け入れてくださっている遠藤農園の遠藤先生(高校の先生でもある)から、昨年の動画についてほめていただいた。
とてもうれしかった。ご自身の毎日見ている風景を撮影して、きれいだねと言っていただけることは、最高の体験だと思う。
だが、しばらくして、「わたしが撮った視線は、都会の人の楽しみのようで、農業の本当の大変さは伝えられていたのだろうか」という不安に駆られた。
そのことを考えてみた。けれど、内省をしたとしても、心は晴れない。
うれしかったことが、ただ、灰色になっていくだけだった。
これが専門職の倫理というものだろうか。
改めて、ほめていただいた動画を見た。
わたし自身も、美しいと思っていたことを思い出す。
背景の音楽はバグパイプにした。
どういうわけか、遠藤農園の作業には、それが似合う気がした。
わたしたちは、田んぼや浜辺に、改めて何をしに行くのだろう。
学ぶのであれば、倫理もともに学ぶ必要がある。
けれど、そればかりではつらい。
しかめつらがきたら、受け入れ先も面白くないはずだ。
では、この活動は成立しないのか。
ここで、ある本から、活動を考え直してみたい。
戦争をテーマとした本である。
政治や善悪の二元論のどちらかを選ばなければならない空気を、わたしたちはどう乗り越えることができるか。
「ぼくはどこまで配慮すべきだろうか。
(配慮しようとしすぎると)生きること自体が加害になるのではないだろうか」
「それでは人間の世界そのものが壊れてしまう。
なんのために配慮が必要だとうったえていたのかわからなくなる。
戦争と平和の関係と同じである」
東浩紀『平和と愚かさ』
あまりに高解像度で状況が見えると、わたしたちは、むしろ配慮ができなくなっていく。
だから、倫理や道徳以前に、人間の生物的な限界を条件として、「見える範囲を限定」し、「ものを考えない」場所をつくらなくてはならないのではないか。
限定した範囲以外では「ものを考えない」でいるしかない、
そして、「それは悪ではない」、と東はいう。
悪ではない。人間の世界が壊れては、意味がないからだ。
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医療の現場では、徹底して倫理は守らなければならないし、理性的な判断が必要となる。
だがそれでも、医療を囲む問題は減っていかない。
たとえば、現時点で医師は地域偏在している。
わたしたちは、田んぼや浜辺で「ものを考えない」で体験をすることは可能なのだろうか。
その体験では考えずに済む楽しさがなければならないだろう。
ただ、全く意味を感じられなければ、参加理由にならないのかもしれない。
生活背景をしる、地域の背景をしる。
そういえば、この本の中には、スミソニアン博物館の展示に関する紀行文もあった。
アメリカの歴史は奴隷制度から切り離せない。天賦の権利をかかげながら大統領にも奴隷がいた。その複雑な歴史をどのように伝えるか。そこでは独立宣言を書く大統領の後ろに奴隷の名前を刻んだという。
「言葉を通過すると、実に複雑で理解しがたい逆説に変わってしまう」
「モノの配置によって、論理を伝えるだけでは伝えることがむずかしい、あるいはとても遠回りになってしまう、単純だけど、同時に複雑な認識を一気に直感できるかどうかなのだ」
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簡単ではない。
しかし、そういえば、硯職人の患者さんのご自宅に伺ったとき、
末永が
「自宅で見ると、患者さんは大きく見える」
と言っていたことを思い出した。
